中外日報 2014年1月3日
空海世界曼荼羅2
高野山開創1200年へ
女流書家・柏木白光さん

「仏を何と思っているのか、ろくに経典も知らずに」。1992年、柏木白光さんは梵字を教えてほしいと、軽い気持ちで種智院大(京都市伏見区)を訪れたが、すぐに青くなった。

バブルの絶頂期、すでに書家として活躍していた柏木さんに、熊本県の天台宗寺院で新たに建立される五重塔の天井に金胎両部の梵字(種字:しゅじ)を書いてほしいとの依頼が舞い込んだ。梵字は知らなかったが落慶は5年先。「今から学べば何とかなる」と思い立ち、持ち前の行動力で同大を訪れたのだ。

種字の持つ宗教的な意味を理解していなかったため、真言僧侶でもあった教授に叱責された。だが柏木さんが食い下がると、後に高野山真言宗管長となる稲葉義猛氏を紹介してもらい、その足で高野山に向かった。

稲葉氏は「尼寺があるから尼僧になれ」と言う。さすがに尼僧になる気はなかった柏木さん。大胆にも「別の道はないですか。しかも超特急で学べる」と切り返した。「なら(梵字の生まれた)現地に行けばいい」と、インド・ネパールへの留学が決まり、巡礼の旅が始まった。

柏木さんは書道家の家系に生まれ、幼少のころから「お大師さん」を書の神様として慕ってきた。そもそも大分県の実家の宗旨は浄土真宗だったが、仏壇の真ん中には大師像があった。それは家業(書道塾)を継ぐべき長男、次男が相次いで不慮の事故、病気で跡を継げなくなったため、娘には健康に育ってほしいとすがる思いで母親が祀ったものだ。両親は毎年、高野山へ参拝、お遍路にも幾度となく行った。寝る前は必ず弘法大師に感謝し、般若心経を唱えた。

こうした家庭に育ったため大師に憧れを抱くのはごく自然なこと。大師が18、19歳で書した般若心経の美しさ、晩年の字体「飛白体(ひはくたい)」、筆をねじるようにして書く「顔法(がんぽう)」の力強さなどに魅了され、その書風・筆法を体で覚えるほどに書き込んだ。

「どうしてこんなに素晴らしい字が書けるのか」と魅了されてやまないが、今では「字のどこかに必ずお大師さんが出てしまう」ほどに。「まったく出ない字を書けという方が難しい」と柏木さんは笑う。

1年半で帰るつもりで行ったネパールも結局、インドも含めて2年間滞在した。釈尊が歩いた道を実際にたどり、そこで感じた心象風景を書や絵にした。聖地を巡礼して各所で作品を作るというこのスタイルはライフワークになった。今月9~15日には東京・新宿で、熊野古道62カ所を巡礼し、その行く先々で描いた書や絵を展示する「天と地~熊野へ捧げる書巡礼」を開催する。

留学中の2年間は人生観を大きく変えたという。電気が通じないネパールでは、冷蔵庫もなく食品がすぐに腐る。そのためみんなが集まって、必要な分だけ作って食べる。「みんなが楽しく、支え合って生きることの大切さに気付いた」

こうした経験から作品を通じて多くの人に笑顔を届けたいと強く考えるようになった。その思いは東日本大震災の被災地にも届いた。

震災直後、一人のファンから突然電話があった―。「震災で友人が亡くなった。あなたの作る詩と書で勇気づけてほしい」

柏木さんは被災地復興を願い「大地の歌」を作詩し、最後の2文字「命煌(いのちきらめく)」を宮城県塩釜市の鹽竈(しおがま)神社で、屏風に揮毫した。やがて復興プロジェクトとして「命煌」のロゴはさまざまなグッズに使われ、収益は被災した子どもたちに送られた。

さらにこのプロジェクトは、震災直前にニュージーランドで発生した地震で被災した小中学生と宮城県石巻市内の子供たちが交流する事業に展開。両国の子どもが筆を執り「大地の歌」を日本語で書いた。

 陽は昇る
 どんな時でも
 水平線は
 金色に染められ
 新しい風が
 波濤を超えて吹く
 不惜身命を
 心に刻み歩きだす
 未来がある
 希望がある
 響愛(ひびきあい)ながら
 東の大地に命煌

作品は今年8月まで、ニュージーランド国内を巡回している。

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